緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

助け合いの最小単位が恋愛とかいう現代社会のバグ

 農学部で「協同組合論」という授業を受けている。

 協同組合はもともと助け合いをするために作られた組織だと学んだ。新自由主義の下自己責任論が浸透する現代で、協同組合の可能性を感じた。

 日本では、家族という助け合いの組織がある。しかし、家族形成の初期段階では、恋愛という極めて不安定なものが求められるのだ。

 2年以上付き合っている恋人と、かれこれ4か月会えていない。自分は、何かあったときに助け合える、信頼できる存在を求めているが、彼女は私に何も求めていないのかもしれない。1年前は一番に頼ってくれていたし、自分も彼女を一番に頼っていたのに、恋愛感情の薄れで、それがなくなるのは悲しいし、孤立を生む。恋愛感情には賞味期限がある。どんな媒体でも言われていることだろうが、関係性が続けば、恋愛感情から愛情・愛着に変化するか、別れるかの二択なのだろう。

 もちろん、こうならないカップルもいるだろうし、こうではない関係を築いているカップルもあるだろう。ただ、自分は最近、恋愛の延長にある家族という考えに違和感を覚え始めただけだ。自分は自然に恋愛の延長に家族(=信頼しあう存在になる)があると思っていたが、彼女を見ていると、そうではないのかもしれないと。

 明治から昭和中期の、家と家の結びつきという意味合いが強く、お見合い結婚主流だった頃の家族形成が良かったかと言われれば、きっといい面悪い面どちらもあるだろう。詳しくは家族社会学などにお願いするが、女性をモノのように扱っていた節もあっただろう。それに比べれば、現代の恋愛は男女平等に近づいているだろう。

 恋愛や家ではない結びつきでカップルを成立させることは難しいのだろうか。恋人関係というのは、互いに唯一無二の関係性になり、互いに優先度が一番高いことを指すのであれば、助け合いの最小単位はどうあればいいのだろうか。