緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が20年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

お酒は免罪符

 二十歳になり、お酒を飲むようになってから、考え方が少し変わった。

 お酒を飲むと、多少変なことをしたり、変なことを言ったりしても許されるのではないか、と考えるようになった。

 「酔ってるから〜」で許容範囲が増えるのだ。だから友達と話してても楽しい気分になるし、普段なら聞くのをためらうことも聞けたりする。そんな免罪符なのではないかと思うようになった。

経験と想像、場所と記憶

 経験したことからしか、想像はできないと思う。

 読書をしているたびに思うのだ。なぜ主人公たちの家が自分の家の間取りに似てしまうのだろうかと。それは自分の家が一番見慣れていて、家といえば真っ先に思いつくからだろう。知っていることから想像は始まる。だから知っていること、見たことあるものが多ければ多いほど、想像力は豊かになると思う。

 また、場所と記憶が結びついていることが多々ある。昔行ったことのある場所に行くと、記憶が蘇ってくるとか、似たような景色を見て、思い出すとか。

 だから私は旅行に行く。いろんなことを経験する。そうすれば、記憶が増え、人生が豊かになる気がするのだ。想起できるものが増えることは幸せだと思う。

友人と会うとき

 私は人とあって話をするのが好きだ。あまり連絡をとっていない友人にも唐突に連絡することが多々ある。

 人に「会いたい」と連絡するときに必ず葛藤する。会いたい、けど相手が嫌がってたらどうしよう、と。

 どんなに親しい友人にでも、相手が自分に会いたくなかったらどうしよう、と考えてしまう。会いたくない相手から連絡きたら嫌だからだ。私は友達に誘われることがほとんどないのでわからないが、大して会いたくない人から連絡をもらったら嬉しいとは思わないだろう。めんどくさいと思うことのほうが多いと思う。

 友達とは信頼関係だと思うが、何故かよく不安になる。本音と建前が見抜けないことと、自分を客観的に見て、嫌われやすい行動を取りがちだからだと自分では思っている。

 こうして、友人への連絡を躊躇する長期休みになるのである。

夏休みの宿題に関する考察

 中高時代は9/1から二学期だった。私の場合、たいてい夏休みの課題は終わっておらず、始業式の日の午後が勝負だった。

 私はなんでもギリギリになってからやるタイプだ。夏休み期間はほとんど宿題をせず、といいつつ好きな課題や短時間ではとても終わらないものはやっておき、8/25ぐらいから宿題完了計画を立て始め、本気を出していた。部活終わりに図書館に行って、各課題の提出日を念入りに確認し、優先順位をつけて、死にものぐるいでやっていた。

 夏休みの宿題には性格が出る。その夏休みの宿題をどのように終わらせるタイプかによって歩む人生は似通ってくるのではないかと考えた。

 早い時期に終わらせるタイプ、コツコツ計画的にやるタイプ、お盆までには終わらせるタイプ、終盤になってからやるタイプ、提出日過ぎてからやるタイプ、そもそも出さないタイプ…。タイプが同じ人は人生も似ているのではないか、と。

 私は追い込まれないと頑張れないし、最小努力でそこそこの成果が得られれば満足する。そして毎年「今年は計画的にやるぞ!」と言っては失敗した人間だ。これは将来の仕事や人生観にも繋がっているのではないだろうか。まだ分からないが、40歳ぐらいになって振り返ってみると、新たなことがわかる気がする。

 血液型占いよりも当たるのではないだろうか? いつかこんなテーマで論文がかけたら面白いだろうなと思う。

 

 

夏の風物詩

 なにも考えずに甲子園を見ていると、夏だな〜と感じる。特にお盆の帰省のとき。

 本当は夏休みの宿題が残っていたり、やるべきことはあるのだけど、猶予はもう少しあるからと、テレビを見ながら高校野球をみる。

 2時は暑いから、エアコンをつけて、扇風機を回しながら、冷たい麦茶を飲む。夏の暑さとやるべきことをやっていない悶々としたものを感じながら。適度なストレスがアクセントになっている時間だ。

 今年の夏は雨で試合が順延続きで、まだ準々決勝である。まさかのナイター試合もあった。野球に詳しいわけでもなく、高校に詳しいわけでもないが、やっているとついつい見てしまう甲子園が、私の夏の風物詩だ。

免許合宿1

 免許合宿に来ている。7日目の今日、修了検定があり、無事に仮免許を取得した。

 本当は合宿中に起きたことを毎日書こうと思っていたのだが、毎日かなり疲れてしまい、書く気力が起きなかった。新しいことをどんどん習っているし、人間関係も作っていくので疲れるのは当然かもしれない。

 仮免許取得まで、様々な苦難困難があったので、また書きたいと思う。

エロゲについて

 半年前に投稿したと思っていたらされていなかった、ヌード写真家の本を読んだ後の文章である。

 昨今のインターネットの発達で、今日では、タダで様々なエロコンテンツを楽しむことができる。もちろん法に触れる部分もあるが、タダでアダルトビデオが見られてしまうので、少年の頃はお金を払うことなく、すぐに楽しんでいた。

 そのため、エロゲをする意味が分からなかった。なぜ、エロのためにゲームをしなければならないのか。ゲームはゲーム、エロはエロでいいだろ、と。時間の無駄だ、と。

 しかし、エロゲーをしてわかることは、自分は裸に興奮しているというより、関係性やストーリーに興奮しているということだ。その娘の背景を知るから、よりエロくなるのだ。想像で補うから興奮するのだ。なんとなくは気がついていたものの、はっきりとはわからなかったが、ヌード写真家の本を読んではっきりわかった。

 エロゲにはストーリーが必須なのだ。そのストーリーが深ければ深いほど、時間をかければかけるほど、エロシーンが興奮するようになるのだ。ヌードにはそれがない。ヌードはそもそもエロシーンではないし、だからこそ肉体美に注目できるのだ。

 かけた時間と思い入れはエロに直結する。これが私の結論だ。