緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

知識というメガネ、経験という色メガネ

 「何のために勉強するのか?」という問いに対して、「見える世界が変わる」という答えがある。

 それはその通りだ。知識が増えれば同じものを見ても、見え方が変わってくる。わかりやすいのは音楽や美術だろう。知らなくても楽しめるが、楽器の種類を知ったり、画家の生きていた時代や美術史を知れば、同じものを鑑賞しても感じ方は変わるだろう。主要5科目もそうだ。国語は語彙力と読解力、算数は数という概念、理科は科学的視点、社会は歴史と現代への繋がり、英語は英語で書かれたものが読める。同じものを見ても得られる情報量が増えるともいえる。

 また、経験も世界の見え方を変える。恋愛小説を読むのと、実際に恋愛をすることは全く違うし、貧困をデータで知っていることと、貧困の暮らしの現状を見ることは全く違う。

 経験という色メガネは、人によって全く違うし、ひととかかわるなから色を濃くすることも薄くすることもできる。しかし、基本的には自分ではどうしょうもない環境要因などが多い。

 一方、知識というメガネは精度は違うものの、知識は一つしかないものなので、組み合わせが違えば見え方は変わってしまうかもしれないが、同じ知識を得れば、同じものが見える。

 果たして知識というメガネは必要なのだろうか。ないよりはあった方がいいと言う人は多いが、本当だろうか。知識が増えれば増えるほど、幸せは遠ざかっていかないだろうか。知識が増えれば増えるほど、世の中の不条理さを知り、その不条理は早々なくならないことがわかる。もちろんその頃には、そこそこの学歴があり、学歴社会で生きていくには十分だと思われる学歴資産がある。金銭的に困ることはないのかもしれないが、幸せになれるかと言われると、わからない。幸せの定義によると思う。中学以降で習うことなんて知らなくても生きていける知識ばかりだ。そのくせ生きていくために必要なお金のことや学歴のことは教えてくれない。

 学習支援をしている中、学歴社会に適応させようと頑張るよりは、もっといい方法があるのではないだろうか、なんてことを考えてしまう。好きなことを見つけて、それをした方が良いのではと思ってみたり、どうやったら幸せに生きていけるか考えた方が良いのではと思ってみたり。いろいろ考えてしまう。