緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

一人暮らしは不自然

 一人暮らしを4年間していて、思う。一人暮らしは不自然だ。人類史上、一人で暮らしてきた世代がどこにいるだろう。人は助け合わないと生きていけないはずなのに。あまりに社会から隔絶されやすくなっている。

 食事が寂しい。1人分つくるのも大変だし、2人分作っても、一緒に食べてくれる人はいない。結局2食、同じものを食べる。感想を言ってくれる人はいないし、共感もできない。ただ栄養を取るための時間になる。

 電気も暖房も1人で使っても2人で使っても変わらないのに、なぜか1人で使っている。お風呂もそうだ。1人ではもったいなくて湯船につかれない。

 誰かと一緒に暮らしたい。一人でいたいときもあるけど、二人でいたいときもある。一人だと一人しか選べないけど、二人なら一人にもなれるし二人にもなれる。

 もちろん一人が好きな人がいるのも知っている。大学で話していると、一人暮らしの方が好きで、卒業後も一人暮らししたいという人がいるから。

 それでも一人暮らしは不自然だと思う。何かの道理に反している。そんな気がする。

出来る子は放置される

 今日の知的障害教育論で、通級指導教室について、現職の通級の先生が講義をしに来てくれた。1つの事例を丁寧に説明してくれて、とても興味深かった。

 自分も小学校の頃、通級があり、通っている同級生がいたことを思い出した。落ち着きがない子や分数の計算ができない子、漢字が苦手な子が通っていた気がする。通級に通う児童生徒は、その子に合った学習計画が立てられ、基本的には1対1で指導が受けられる。

 それを聞いて、羨ましいと感じてしまう自分がいた。もちろん、通級に通う子は周りと違うことの劣等感などを感じているケースがあると学んだが、1人の先生に見てもらえるのは嬉しい気がする。

 集団授業で、先生の手が十分でないとき、先生は出来の悪い子に注意が向いてしまうものだ。それは、自分が教壇に立った時も、複数の子の学習支援をしているときに実感した。自分で手が動いている生徒には特段声をかけず、手が止まっていたり、集中力が切れている生徒に声をかけてしまう。

 高校生の頃、好きだった先生が自習監督に来た時、紙でジャバラを作って、振り回したことがあることを思い出した。構ってほしくて、変な行動をしたのだ。普段は普通に振舞っているのだが、普通に授業を受けてても、構ってはもらえないのだ。授業中しょっちゅう寝たり、赤点を取ったりしないといけないのだ。そんなことはできないけど、出来る限りの奇行が、自習中にジャバラを振り回すこととだった。

 その時の記憶が何故か思い起こされた。

「忙しい理系彼女に構ってもらえないので、文系彼氏は恋愛本を読み漁る」#1

 恋愛は難しい!

 本当に難しい。どうしたらいいかわからないことがしょっちゅう起きる。それでも街を歩くと、手をつないだカップルや手を組んだカップルを目にすることができる。そして、結ばれて、子どもができて、と人類史は紡がれてきたのだろう。

 勉強はできるのに、人の気持ちはわからない。恋愛になると途端にポンコツになる(普段もポンコツではあるかもしれない)。男子校出身でまともな恋愛経験を積んできていない。自己肯定感が高いようで、実は低い。

 そもそも恋愛は千差万別で、極論二人が良ければそれでいいのだから、世の恋愛相談や恋愛指南本に大した意味はない。しかし、傾向と先人たちの知恵を知ることは大事だ。

 というわけで、「忙しい理系彼女に構ってもらえないので、文系彼氏は恋愛本を読み漁る」、これで暇からくる精神的不安定から解放されようと思う。

来年の抱負

 来年の抱負は、日常生活で、クソ、草、ンゴ、ワイ、定期、すこを使わないことだ。

 春から社会人となるので、言葉遣いには注意したい。官僚がネットスラングを使っているのは解釈違いである。ネットスラングを使わない、丁寧な言葉遣いを心がけたい。

 きれいな言葉遣いを心がけ、品位ある社会人でありたい。ぱっと出てくる言葉が、その人のことを表すと思う。品位、品格、生まれ、育ち。

 根っこがこじらせ2ch陰キャなので、ネットスラングとの相性がすこぶるいい。目にする機会も多いし、思わず使いたくなってしまう。

 特に、程度を強める言い回しとしてクソを使うのをやめたい。とても、すごく、ぐらいにしておきたい。2音のいい程度を強める言い回しがあれば教えてほしい。

 

 

クリスマスとかいう謎イベント

 なぜ日本ではクリスマスに恋人と過ごす風潮が出来上がったのだろう。

 イエス・キリストの降誕をお祝いするためにあるクリスマス。「クリスマス」の言葉通り、本来キリスト教徒はこの日は教会に赴き、聖書朗読をしたり、神父様(プロテスタントは牧師様)の説教を聞いたり、お祈りを捧げたりする礼拝(カトリックではミサ)に参加するそうだ。

 キリスト教徒でもないのに、クリスマスを心待ちにしている自分がいて、少しだけ驚く。

 調べてみると、日本で恋人と過ごすような風潮になったのはバブル期からだそうだ。(参考:https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/56064

 商業戦略に乗せられることに悔しさを感じないわけではないが、クリスマスのおかげで恋人とのイベントが1つ増えることは嬉しいことかもしれない。今年は会えるかどうかも分からないが。

 

中学の技術と美術

 中学生ながら技術の授業と美術の授業で求められる能力は180度違うと常々思っていた。

 自分の中学校では美術や技術も100点満点で偏差値と順位が付いていた。

 技術は図面を書いたり、木工をしたり、金属加工をした。先生の指示を聞いて、その通りにやる。ただそれだけだ。

 美術は油絵を描いたり、木版画をしたりした。やり方や描き方はほとんど習わず、感覚でやっていた。

 自分は技術の方が好きだった。やるべきことが明確で、それを忠実にやるだけで評価されたからだ。美術は楽しいこともあったが、うまく描けないとモヤモヤするし、その解決策も分からなかった。やるべきことをやって評価されるということが向いていたのかもしれない。

 あちこちオードリーで秋元真夏が「これだけやれって決めてもらった人生の方が楽しい」と言っていた。それを口にできることにかっこよさを覚えた。自分もそちら側の人間だ。

 (美術の先生は何で点をつけていたのだろう。教員視点に立つと評価の難しさを感じる。)

 

大学の書庫

 大学の書庫にいくと、膨大な本の量に圧倒される。世の中にはこんなにたくさん本があるのかと。知の集積を目の当たりにする。

 軽い絶望を覚える。この中のごくごくごく一部のことしか知れずに死ぬんだと。そして、自分の専門分野の棚に行ってまた絶望する。先人たちの研究のすべてに目を通すこともできず、自分は高等教育論を学んだと言っていいのかと。何一つ知らないじゃないかと。

 もちろん、一人で何でも学ぶことは無理であり、人類は協力してこれまで知を集積してきたのだと思えば、自分もその一部になることはできる。全てを知ることは不可能だが、みんなで少しずつ積み上げることで、社会はより良くなっていったのだと感じられる。

 専門の378周辺しか基本的には行かないが、378だけでこれだけあるのかと本当に驚く。理系と比べて専門性は欠片も身についていないが、一丁前に研究者っぽいことをしている。