緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

時間の密度

 中高生の頃のレポート提出前も、定期テスト前も、夏休みの宿題もそうだった。ギリギリにならないとやる気が出ず、直前になって焦って猛スピードでやる。

 大学に入ってからも変わらない。圧力がかからないとレポートが書けない。提出期限の直前が一番効率がいい。それは経験則的に嫌というほどわかっている。性格はそうそう変わらない。

 自分の卒論はゴールが明確でないため、やるべきことも明確でない。明確にすべきだが、ついつい逃げている。いつまでも、「どうしようかな~」と悩んでいる。

 早く問題を絞り込んで、それについて論じるべきなのだが、なかなかそれができない。自由に悩んでると言えば聞こえはいいが、論文にはならない。

 焦らされているときの時間の密度はとても濃い。ダラダラしているときの薄さと比にならない。中学生の時から思っていたテストの前と後で同じ1時間とは思えない感覚は今も健在だ。

他者基準ニキ

 趣味はコミュニケーションツールである。好きなものが合うだけで仲良くなりやすくなる。ということは、どんな人と仲良くしたいかで趣味を変えればいいのだと思う。自分がその趣味が好きかどうかではなく、自分が好きな人と仲良くなるための手段として趣味を捉える節があることに最近気が付く。時間は有限で、どのコンテンツを消費するかは選択しなければならない。その時の基準は、もちろん「面白そう」もあるが、「これを消費してどんな人と仲良くなれるか」がある。

 恋愛でもそう。付き合ってからは、好きになった人に合わせる。服装だって、考え方だって、趣味だって、相手の好みに合わせたいと思う。なんなら、自分が好きになりやすい人に好かれるにはどうしたらいいか考えることもある。

 順応するのが得意なのかもしれない。自分の中にこだわりがないから。

 同時に「自分らしく生きよう」が無理だ。自分らしさなんかどこにあるかわからないからだ。「本当にしたいこと」なんてない。それには社会的規範が付きまとってくるから。規範や他者が用意した基準によって生きることが得意だとは思う。いいか悪いかは置いといて。

助け合いの最小単位が恋愛とかいう現代社会のバグ

 農学部で「協同組合論」という授業を受けている。

 協同組合はもともと助け合いをするために作られた組織だと学んだ。新自由主義の下自己責任論が浸透する現代で、協同組合の可能性を感じた。

 日本では、家族という助け合いの組織がある。しかし、家族形成の初期段階では、恋愛という極めて不安定なものが求められるのだ。

 2年以上付き合っている恋人と、かれこれ4か月会えていない。自分は、何かあったときに助け合える、信頼できる存在を求めているが、彼女は私に何も求めていないのかもしれない。1年前は一番に頼ってくれていたし、自分も彼女を一番に頼っていたのに、恋愛感情の薄れで、それがなくなるのは悲しいし、孤立を生む。恋愛感情には賞味期限がある。どんな媒体でも言われていることだろうが、関係性が続けば、恋愛感情から愛情・愛着に変化するか、別れるかの二択なのだろう。

 もちろん、こうならないカップルもいるだろうし、こうではない関係を築いているカップルもあるだろう。ただ、自分は最近、恋愛の延長にある家族という考えに違和感を覚え始めただけだ。自分は自然に恋愛の延長に家族(=信頼しあう存在になる)があると思っていたが、彼女を見ていると、そうではないのかもしれないと。

 明治から昭和中期の、家と家の結びつきという意味合いが強く、お見合い結婚主流だった頃の家族形成が良かったかと言われれば、きっといい面悪い面どちらもあるだろう。詳しくは家族社会学などにお願いするが、女性をモノのように扱っていた節もあっただろう。それに比べれば、現代の恋愛は男女平等に近づいているだろう。

 恋愛や家ではない結びつきでカップルを成立させることは難しいのだろうか。恋人関係というのは、互いに唯一無二の関係性になり、互いに優先度が一番高いことを指すのであれば、助け合いの最小単位はどうあればいいのだろうか。

強者女性の彼女が無敵の人に殺されたら

 恋人と理想とする社会観が異なる。

 彼女は格差の是正の必要性を感じていない。どんな環境でも努力すればいいと思っている。社会的に不利なのは努力が足りなかったからだという自己責任論に立っている。彼女自身はとても努力家であり、様々な能力が高い。もちろん環境も恵まれているのだが。

 そんなとき無敵の人による無差別殺人事件が頭をよぎる。彼女は無敵の人に殺されたとき、どう思うのだろうかと。

 無敵の人とは、「社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング。 2008年に西村博之ひろゆき)が使い始めた。」(Wikipedia)である。

 無敵の人が無敵になる要因はいくつがあるだろうが、大きくは自己責任論と社会的孤立があるだろう。自己責任論によって自分が苦しいのは社会構造のせいではなく、自分のせいなのだと他者から責められ、いつしか自分で自分を責めていく。親や友人など他者との関わり・つながりがなければ、この世に残るのは憎しみだけだろう。

 彼女は、絵にかいたような強者女性である。生まれに恵まれ、自分の努力で能力を獲得してきたと思い、自信に満ち溢れている。弱者男性の対極にいるような女性だ。彼女は生まれに恵まれず、環境に恵まれず、この世に憎しみしかない無敵の人に向かって何を言うのだろうか。その背景を知ったときそれでも努力しろと言うのだろうか。自分が無意識に履いているゲタを棚に上げて言うのだろうか。

恋の最後

 3日連続で彼女の夢を見た。もういっそずっと夢の中にいたい。それで彼女に会えるなら、一生寝ていたい。そうか、永眠すればいいんだ。

 街は早くもクリスマスムード一色だ。街中で楽しそうにしているカップルを見るたびに、自分たちにもあんな時期があったなあと思う。

 もう失恋した後の気持ちのようだ。4か月会えておらず、向こうからの連絡もなく、半殺しのような状態が続いている。ただただ本当に忙しくて彼氏に構う時間が全くないだけかもしれないし、愛想をつかして別れるまでの時間をただ先延ばししているだけかもしれないし、別れる理由を探しているのかもしれない。もう、我慢のコップから水があふれてしまったのかもしれない。

 今までは片思いだったから失恋と言っても大きな心情の変化はなかった。むしろ清々しさまであったかもしれない。

 でも今回は違う。両想いで、付き合っていた時期が2年もあって、いろいろな思い出がありすぎる。何かを見るたびに、関連するエピソードが思い出される。何もかもが初めてだった。札幌駅を歩いているだけで、大学構内を歩いているだけで、いろんな思い出がよみがえる。

 どこかに行きたいと思ったとき、真っ先に彼女の顔が浮かぶ。ふとした瞬間に思い出を思い出す。きれいなものをみた時に真っ先に共有したいと思う。

 そう思えるような人と出会い、付き合えたことだけで、十分幸せなことだったのだ。ただ、その幸せを知ってしまったら、それを失うことがどれだけ辛いかも知ってしまった。

モヤモヤしたこと近況

~学部の友人とLINEグループで教育談義をしていて~

 卒論は進まないのに、学校関連のニュースを共有し、教育談義をしているときは手が止まらない。4月からは教育とは全く異なることを仕事にするんだなあ、と思い、少し寂しくなる。他の皆は大学院に進学するなか、農学院の同期ばかりの職場で教育の話はしづらそうだなと少しだけ思う。

 

~春から高校教員をしている先輩とLINEしていて~

 大学院に戻って教育社会学研究がしたいと言っている知的好奇心の強い先輩(公民科)に、自分は偽りの知的好奇心だと伝えてみたところ、ブルジョア階層だからな、と言われた。真意を聞けていないが、非難がこもっていることは確かだ。

 

不登校定時制高校経験の文科省官僚の記事を読んで~

 文科省官僚なりたかったなぁ、自分の強みを生かして仕事したかったなぁ、と思ってしまった。やっぱり文科官僚に憧れている。官庁訪問はマッチングだとわかっていても、教育社会学を専攻して、文科官僚になっているケースをみると、羨ましいと思ってしまう。

 

~教職ポートフォリオを書いていて~

 民主主義社会を形成する市民の育成と書いてみたものの、自分が本当にそう思っていないから薄っぺらい言葉になる。自分だって、民主主義を担う市民になれてないし、社会問題に関わらなくていいなら関わりたくない。だって、めんどくさいじゃん。半径5メートルが幸せならそれでいい。

 あと、手書きはしんどいって。何の意味があるの。電子化しろ。暴動起こすぞ。卒論を書く時間を奪うな。

 

~卒論を書いていて~

 なんのために書いているのか。卒業のため? 他者から評価してもらうため? 立場の弱い人のために書きたかったのに結局自分のため? これをやって何になるの? 何が明らかになるの? 何のために明らかにするの? なぜ研究するの?

 

中学受験はズル?

 都内の中学受験が過熱しているようだ。

 東京の小学生は大多数が中学受験をしていると誤解されることが多いが、都内の中学受験の割合は2割弱だ。区や市によって割合は異なり、23区内最高は文京区で5割弱、最低は江戸川区で1割、市では三鷹市が最高で2割弱、武蔵村山市が最低で0.3割である。あくまで一部の人たちの話だ。

(参考:どうする?東京の中学受験~あなたの街の私立中学校の進学率は | NHK

 中学受験はズルだと思う。全員が有利になるわけではないが、有利になる確率がかなり高い。そして、そのレールに乗るための条件は、家庭の経済力である。社会階層の影響を受けまくる。

 他の人が小学生の間に遊んでいる間に、勉強してたんだから仕方ない(当然だろ)という考えもあるが、進んで勉強していたわけじゃないと思う。親によってやらされていた側面が否めない。勉強は面白いと思えるまでに時間がかかるものだと思う。ゲームの何十倍も楽しいと思えるまでの苦痛の時間が長く、手間がかかる。それを親や塾に強制され、そのレールに従って無抵抗に努力することで、勉強が楽しいフェーズにたどりつく(自論)。

 愛媛県松山市出身の友人曰く、地方の小中高校生は、東大に2~5人に1人が合格する中高があることを知らないらしい。中学まではどこに行っても一緒で、高校でいいところに行って、努力すれば(勉強すれば)、誰でも難関大に合格できると思っていたらしい。

 そんなことはない。中学受験をすることで、驚異的なブーストがかかるのだ。都市部の高所得者層は子どもに将来辛い思いをさせないため、学歴社会で有利になるため、階層の再生産をするために、中学受験という特別ルートに数百万を課金するのだ。