緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

クリスマスとかいう謎イベント

 なぜ日本ではクリスマスに恋人と過ごす風潮が出来上がったのだろう。

 イエス・キリストの降誕をお祝いするためにあるクリスマス。「クリスマス」の言葉通り、本来キリスト教徒はこの日は教会に赴き、聖書朗読をしたり、神父様(プロテスタントは牧師様)の説教を聞いたり、お祈りを捧げたりする礼拝(カトリックではミサ)に参加するそうだ。

 キリスト教徒でもないのに、クリスマスを心待ちにしている自分がいて、少しだけ驚く。

 調べてみると、日本で恋人と過ごすような風潮になったのはバブル期からだそうだ。(参考:https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/56064

 商業戦略に乗せられることに悔しさを感じないわけではないが、クリスマスのおかげで恋人とのイベントが1つ増えることは嬉しいことかもしれない。今年は会えるかどうかも分からないが。

 

中学の技術と美術

 中学生ながら技術の授業と美術の授業で求められる能力は180度違うと常々思っていた。

 自分の中学校では美術や技術も100点満点で偏差値と順位が付いていた。

 技術は図面を書いたり、木工をしたり、金属加工をした。先生の指示を聞いて、その通りにやる。ただそれだけだ。

 美術は油絵を描いたり、木版画をしたりした。やり方や描き方はほとんど習わず、感覚でやっていた。

 自分は技術の方が好きだった。やるべきことが明確で、それを忠実にやるだけで評価されたからだ。美術は楽しいこともあったが、うまく描けないとモヤモヤするし、その解決策も分からなかった。やるべきことをやって評価されるということが向いていたのかもしれない。

 あちこちオードリーで秋元真夏が「これだけやれって決めてもらった人生の方が楽しい」と言っていた。それを口にできることにかっこよさを覚えた。自分もそちら側の人間だ。

 (美術の先生は何で点をつけていたのだろう。教員視点に立つと評価の難しさを感じる。)

 

大学の書庫

 大学の書庫にいくと、膨大な本の量に圧倒される。世の中にはこんなにたくさん本があるのかと。知の集積を目の当たりにする。

 軽い絶望を覚える。この中のごくごくごく一部のことしか知れずに死ぬんだと。そして、自分の専門分野の棚に行ってまた絶望する。先人たちの研究のすべてに目を通すこともできず、自分は高等教育論を学んだと言っていいのかと。何一つ知らないじゃないかと。

 もちろん、一人で何でも学ぶことは無理であり、人類は協力してこれまで知を集積してきたのだと思えば、自分もその一部になることはできる。全てを知ることは不可能だが、みんなで少しずつ積み上げることで、社会はより良くなっていったのだと感じられる。

 専門の378周辺しか基本的には行かないが、378だけでこれだけあるのかと本当に驚く。理系と比べて専門性は欠片も身についていないが、一丁前に研究者っぽいことをしている。

時間の密度

 中高生の頃のレポート提出前も、定期テスト前も、夏休みの宿題もそうだった。ギリギリにならないとやる気が出ず、直前になって焦って猛スピードでやる。

 大学に入ってからも変わらない。圧力がかからないとレポートが書けない。提出期限の直前が一番効率がいい。それは経験則的に嫌というほどわかっている。性格はそうそう変わらない。

 自分の卒論はゴールが明確でないため、やるべきことも明確でない。明確にすべきだが、ついつい逃げている。いつまでも、「どうしようかな~」と悩んでいる。

 早く問題を絞り込んで、それについて論じるべきなのだが、なかなかそれができない。自由に悩んでると言えば聞こえはいいが、論文にはならない。

 焦らされているときの時間の密度はとても濃い。ダラダラしているときの薄さと比にならない。中学生の時から思っていたテストの前と後で同じ1時間とは思えない感覚は今も健在だ。

他者基準ニキ

 趣味はコミュニケーションツールである。好きなものが合うだけで仲良くなりやすくなる。ということは、どんな人と仲良くしたいかで趣味を変えればいいのだと思う。自分がその趣味が好きかどうかではなく、自分が好きな人と仲良くなるための手段として趣味を捉える節があることに最近気が付く。時間は有限で、どのコンテンツを消費するかは選択しなければならない。その時の基準は、もちろん「面白そう」もあるが、「これを消費してどんな人と仲良くなれるか」がある。

 恋愛でもそう。付き合ってからは、好きになった人に合わせる。服装だって、考え方だって、趣味だって、相手の好みに合わせたいと思う。なんなら、自分が好きになりやすい人に好かれるにはどうしたらいいか考えることもある。

 順応するのが得意なのかもしれない。自分の中にこだわりがないから。

 同時に「自分らしく生きよう」が無理だ。自分らしさなんかどこにあるかわからないからだ。「本当にしたいこと」なんてない。それには社会的規範が付きまとってくるから。規範や他者が用意した基準によって生きることが得意だとは思う。いいか悪いかは置いといて。

助け合いの最小単位が恋愛とかいう現代社会のバグ

 農学部で「協同組合論」という授業を受けている。

 協同組合はもともと助け合いをするために作られた組織だと学んだ。新自由主義の下自己責任論が浸透する現代で、協同組合の可能性を感じた。

 日本では、家族という助け合いの組織がある。しかし、家族形成の初期段階では、恋愛という極めて不安定なものが求められるのだ。

 2年以上付き合っている恋人と、かれこれ4か月会えていない。自分は、何かあったときに助け合える、信頼できる存在を求めているが、彼女は私に何も求めていないのかもしれない。1年前は一番に頼ってくれていたし、自分も彼女を一番に頼っていたのに、恋愛感情の薄れで、それがなくなるのは悲しいし、孤立を生む。恋愛感情には賞味期限がある。どんな媒体でも言われていることだろうが、関係性が続けば、恋愛感情から愛情・愛着に変化するか、別れるかの二択なのだろう。

 もちろん、こうならないカップルもいるだろうし、こうではない関係を築いているカップルもあるだろう。ただ、自分は最近、恋愛の延長にある家族という考えに違和感を覚え始めただけだ。自分は自然に恋愛の延長に家族(=信頼しあう存在になる)があると思っていたが、彼女を見ていると、そうではないのかもしれないと。

 明治から昭和中期の、家と家の結びつきという意味合いが強く、お見合い結婚主流だった頃の家族形成が良かったかと言われれば、きっといい面悪い面どちらもあるだろう。詳しくは家族社会学などにお願いするが、女性をモノのように扱っていた節もあっただろう。それに比べれば、現代の恋愛は男女平等に近づいているだろう。

 恋愛や家ではない結びつきでカップルを成立させることは難しいのだろうか。恋人関係というのは、互いに唯一無二の関係性になり、互いに優先度が一番高いことを指すのであれば、助け合いの最小単位はどうあればいいのだろうか。

強者女性の彼女が無敵の人に殺されたら

 恋人と理想とする社会観が異なる。

 彼女は格差の是正の必要性を感じていない。どんな環境でも努力すればいいと思っている。社会的に不利なのは努力が足りなかったからだという自己責任論に立っている。彼女自身はとても努力家であり、様々な能力が高い。もちろん環境も恵まれているのだが。

 そんなとき無敵の人による無差別殺人事件が頭をよぎる。彼女は無敵の人に殺されたとき、どう思うのだろうかと。

 無敵の人とは、「社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング。 2008年に西村博之ひろゆき)が使い始めた。」(Wikipedia)である。

 無敵の人が無敵になる要因はいくつがあるだろうが、大きくは自己責任論と社会的孤立があるだろう。自己責任論によって自分が苦しいのは社会構造のせいではなく、自分のせいなのだと他者から責められ、いつしか自分で自分を責めていく。親や友人など他者との関わり・つながりがなければ、この世に残るのは憎しみだけだろう。

 彼女は、絵にかいたような強者女性である。生まれに恵まれ、自分の努力で能力を獲得してきたと思い、自信に満ち溢れている。弱者男性の対極にいるような女性だ。彼女は生まれに恵まれず、環境に恵まれず、この世に憎しみしかない無敵の人に向かって何を言うのだろうか。その背景を知ったときそれでも努力しろと言うのだろうか。自分が無意識に履いているゲタを棚に上げて言うのだろうか。