緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

恋の最後

 3日連続で彼女の夢を見た。もういっそずっと夢の中にいたい。それで彼女に会えるなら、一生寝ていたい。そうか、永眠すればいいんだ。

 街は早くもクリスマスムード一色だ。街中で楽しそうにしているカップルを見るたびに、自分たちにもあんな時期があったなあと思う。

 もう失恋した後の気持ちのようだ。4か月会えておらず、向こうからの連絡もなく、半殺しのような状態が続いている。ただただ本当に忙しくて彼氏に構う時間が全くないだけかもしれないし、愛想をつかして別れるまでの時間をただ先延ばししているだけかもしれないし、別れる理由を探しているのかもしれない。もう、我慢のコップから水があふれてしまったのかもしれない。

 今までは片思いだったから失恋と言っても大きな心情の変化はなかった。むしろ清々しさまであったかもしれない。

 でも今回は違う。両想いで、付き合っていた時期が2年もあって、いろいろな思い出がありすぎる。何かを見るたびに、関連するエピソードが思い出される。何もかもが初めてだった。札幌駅を歩いているだけで、大学構内を歩いているだけで、いろんな思い出がよみがえる。

 どこかに行きたいと思ったとき、真っ先に彼女の顔が浮かぶ。ふとした瞬間に思い出を思い出す。きれいなものをみた時に真っ先に共有したいと思う。

 そう思えるような人と出会い、付き合えたことだけで、十分幸せなことだったのだ。ただ、その幸せを知ってしまったら、それを失うことがどれだけ辛いかも知ってしまった。

モヤモヤしたこと近況

~学部の友人とLINEグループで教育談義をしていて~

 卒論は進まないのに、学校関連のニュースを共有し、教育談義をしているときは手が止まらない。4月からは教育とは全く異なることを仕事にするんだなあ、と思い、少し寂しくなる。他の皆は大学院に進学するなか、農学院の同期ばかりの職場で教育の話はしづらそうだなと少しだけ思う。

 

~春から高校教員をしている先輩とLINEしていて~

 大学院に戻って教育社会学研究がしたいと言っている知的好奇心の強い先輩(公民科)に、自分は偽りの知的好奇心だと伝えてみたところ、ブルジョア階層だからな、と言われた。真意を聞けていないが、非難がこもっていることは確かだ。

 

不登校定時制高校経験の文科省官僚の記事を読んで~

 文科省官僚なりたかったなぁ、自分の強みを生かして仕事したかったなぁ、と思ってしまった。やっぱり文科官僚に憧れている。官庁訪問はマッチングだとわかっていても、教育社会学を専攻して、文科官僚になっているケースをみると、羨ましいと思ってしまう。

 

~教職ポートフォリオを書いていて~

 民主主義社会を形成する市民の育成と書いてみたものの、自分が本当にそう思っていないから薄っぺらい言葉になる。自分だって、民主主義を担う市民になれてないし、社会問題に関わらなくていいなら関わりたくない。だって、めんどくさいじゃん。半径5メートルが幸せならそれでいい。

 あと、手書きはしんどいって。何の意味があるの。電子化しろ。暴動起こすぞ。卒論を書く時間を奪うな。

 

~卒論を書いていて~

 なんのために書いているのか。卒業のため? 他者から評価してもらうため? 立場の弱い人のために書きたかったのに結局自分のため? これをやって何になるの? 何が明らかになるの? 何のために明らかにするの? なぜ研究するの?

 

中学受験はズル?

 都内の中学受験が過熱しているようだ。

 東京の小学生は大多数が中学受験をしていると誤解されることが多いが、都内の中学受験の割合は2割弱だ。区や市によって割合は異なり、23区内最高は文京区で5割弱、最低は江戸川区で1割、市では三鷹市が最高で2割弱、武蔵村山市が最低で0.3割である。あくまで一部の人たちの話だ。

(参考:どうする?東京の中学受験~あなたの街の私立中学校の進学率は | NHK

 中学受験はズルだと思う。全員が有利になるわけではないが、有利になる確率がかなり高い。そして、そのレールに乗るための条件は、家庭の経済力である。社会階層の影響を受けまくる。

 他の人が小学生の間に遊んでいる間に、勉強してたんだから仕方ない(当然だろ)という考えもあるが、進んで勉強していたわけじゃないと思う。親によってやらされていた側面が否めない。勉強は面白いと思えるまでに時間がかかるものだと思う。ゲームの何十倍も楽しいと思えるまでの苦痛の時間が長く、手間がかかる。それを親や塾に強制され、そのレールに従って無抵抗に努力することで、勉強が楽しいフェーズにたどりつく(自論)。

 愛媛県松山市出身の友人曰く、地方の小中高校生は、東大に2~5人に1人が合格する中高があることを知らないらしい。中学まではどこに行っても一緒で、高校でいいところに行って、努力すれば(勉強すれば)、誰でも難関大に合格できると思っていたらしい。

 そんなことはない。中学受験をすることで、驚異的なブーストがかかるのだ。都市部の高所得者層は子どもに将来辛い思いをさせないため、学歴社会で有利になるため、階層の再生産をするために、中学受験という特別ルートに数百万を課金するのだ。

農業政策と教育政策

 しょっちゅう学校の夢を見るぐらい学校が好きで、隙あらば教育の話をしている自分が春から農林水産省で農政に関する仕事をするらしい。

 「え、なんで?」と思う。自分でも思うし、周りも多分思ってる。

 説明すれば長くなる(ならない)が、教育学徒の自分は今学期、農学部の授業を受けている。同期になる先輩からおすすめの授業を聞き、農業政策や協同組合についての授業を4コマ受けている。

 農業政策ド素人が農業政策の授業を受けると、教育政策とは全く構造が異なることが分かった。

 教育政策は、極めて単純で、「より良い教育環境・教育条件」と「限られた予算」の折り合いである。

 それに対して農業政策は、市場経済、国際情勢、環境問題、気象など、あらゆるものに影響を受けている。変数の数が明らかに多いことに気がついた。もしかしたら教育政策が少ないだけかもしれないが、複雑さに驚いている。特に自分は経済的な視点が欠けているので、農業と経済の近さに驚いている。例えば、食料自給率を上げるために補助金を出すべきかどうか、は農林水産省内での異なる立場に立つ部署があり(生産者側と消費者側)、人によって考えも異なる。

 教育政策は、子どもたちのためという共通認識のもと、教育を重質させることが目的なので、省内では争わず、対立するのは教育産業の活性化をめざす経産省と公教育コストを下げたい財務省新自由主義的政策を進める政治家である。

 ポテンシャル採用によって畑違いの政策立案に携わるわけだが、前途多難な気がする。

恋人に好きを伝えられない

 重たくなりたくない。

 理性で調整している。

 「好き」「会いたい」が伝えられない。

 ほんとは早く会いたい。会ってハグがしたい。

 でもそれが上手く伝えられない。

 

 恋人が忙しいことは頭ではわかっている。

 ないがしろにされていることもわかっている。

 前と同じような関係でなくなっていることもわかっている。

 想いは言わないと伝わらないこともわかっている。

 それでも、嫌われたくないが勝ってしまう。

 だから伝えられない。

 今日も一人で生きている。

感覚が鈍いという罪

 大学で仲のいい友人から「○○(自分)って感覚鈍いよな」と言われた。

 一瞬悪口だと思った。でも思い当たる節が多くて、妙に納得してしまった。

 他人の感情にも。自分の進路にも。肉体の感覚にも。女の子の外見の変化にも。

 友人は敏感よりは鈍感な方が生きやすいよ、とフォローされた。

 たしかに鈍感な方が生きやすいとは思う。ただ、それは周りに甘えているから生きていけるのだと思う。鈍感さは時に人を無自覚に傷つけるだろう。それで恋人に呆れられ、捨てられることもある(かもしれない)。

 これまでも感覚の鈍さで人を傷つけてきたと思う。明確に何で傷つけたかはわからないが、多分何かで傷つけたのだろうという経験が多い。

 「鈍さは重さだ。鈍さからくる無邪気は、重い邪気だ。」朝井リョウ言語化が上手すぎで悔しくなる。その通りだと思う。無自覚の無邪気はたちが悪い。

東大合格は超超超簡単!(ヒント:環境)

 東大合格は超簡単である。文系なら文Ⅲ、理系なら理Ⅱが特に簡単だ。

 共通テストで800/900点を取り、二次試験で240/440点を取ればいいのだ。

 こんなに明快な基準なことはない!

 予備校はこぞって東大合格者数を競っているので、問題分析も山ほどされているし、解答解説もたくさんある。二次試験は記述式で採点基準は公表されていないが、各予備校が威信をかけて採点基準や配点を予想している。受験対策はこれでもかというほどされている。

 東大模試もたくさんある。河合塾で2回、駿台で2回、東進で4回、代ゼミで2回と受けようと思えば年に10回も受けられる。他大の冠模試の2倍以上の回数がある。予備校の力の入れ具合が分かるだろう。

 予備校は合格者データ・不合格者データもたくさん持っている。そのため、この時期に何点取れている受験生はどの程度の確率で合格するかが統計的にはわかるのだ。

 東大合格のためにやるべきことは極めて明確で、共通テストで800/900点を取り、二次試験で240/440点取れるような勉強をすることだ。

 求められている能力も分かりやすい。素早い情報処理能力、論理的思考力、簡潔な文章力、5教科7科目を手広くこなす器用さ、少しの知識力、ミスの少なさあたりだろう。

 こんなの努力すれば誰でもできる。東大に受かるのに必要なのは適切な方向で大量の努力をすればいい。ただの点数ゲームだ。

 

 と、こんなことを言えるのは、高学歴・高収入の親の元に生まれ、東京で育ち、親の教育関心が高く、性別による偏見を受けず、中学受験をして中高一貫校に入り、高校内容を中学から先取りし、何不自由なく勉強する時間がたくさんあり、塾・予備校にも何不自由なく通い、膨大な情報にアクセスでき、周りに志を共にする友人がおり、東大入試レベルを教えることができる教師がおり、高校の先輩に東大OBOGがたくさんおり、東大受験を金銭的にも精神的にも応援してくれる親がいる環境だったやつだと思う。

 実際に東大合格者の親の平均年収は約900万であり、平均年収の約2倍だ。

 中学受験をすれば、小6までに多くの中学範囲の内容に触れ、2~5人に一人は東大に現役で合格するような中高に入ることもできる。当たり前のようにSAPIX鉄緑会に通い、当たり前のように東大に合格していく人がいる。

 条件がそろっていれば、東大合格なんて造作もないことだ。友人たちを見て思う。もちろん彼らも人並み以上の努力はしているし、尊敬もしている。それでも、環境の要因の大きさを感じる。