緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

自分の性格を受け入れるのはいつ?

 私は、期限ギリギリにならないと頑張れなかったり、人の目がないと頑張れなかったり、比較的早い段階で諦めて逃げ道を作ったり、方向転換する癖(性格)がある。悪くとらえれば短所だし、よくとらえれば長所である。この性格たちは変えたいと思っているが、(今更変わるのか?)と疑心暗鬼である。

 「人間は何歳からでも変われる」とよく言うが、本当だろうか? それ相当の機会があれば変わるのだろうが、それは変わるというより、イベントによって変えられたともとれる。「変われないのは、変わりたいと思っていないからだ」とも言うが、そりゃそうだろう。変わるにはエネルギーが必要だから。そして、過去の自分とおさらばしなくてはならないから。だから年を取ると頑固になるのだと思う。余計なエネルギーを使いたくない(使える余裕がない)し、過去の自分が積み重なっているから過去の自分の否定につながるからだ。諦める理由も増える。あのときもあのときも出来なかったと。

 

現実

 テスト前、大学の図書館で勉強していて、ふと隣を見ると、水を飲むためにマスクをはずした隣の女性がとてもかわいかった。誰かに似てると思い、考えてみたが、最近観たAV女優に似ているという結論に至り、複雑な気持ちになった。最近のAV女優は、街ですれ違ったら振り返ってしまうくらい可愛い人がたくさんいる。だからといって、誰に似てるかで真っ先にAV女優が思いつくと、なんだか性欲の塊というか、AVをよく見てるのがばれるというか、相手に対して失礼になりそうだとか、そんなことを思うのはAV女優に失礼だろうかとか、いろいろ考えてしまった。

 高校時代の友人に「かわいい子には彼氏がいると思った方がいい」と言われたが、そんなことはないだろうと思っていた。かわいい子はそうやって敬遠されて、彼氏がいないかもしれない。行動しないと彼女はできないのだから、帰り際にでも告白しようかと考えた。大学の図書館だから、大学は一緒だし、今なら声をかければ4分の3で先輩である。いろんなことを想像しながら、閉館の20時までいようと思い、フランス語を勉強していると、19時半過ぎに男性が上の階から下りてきて、彼女に近づいた。(なぜ?)と考えた。仕草からすぐに彼氏だとわかった。最悪だ。やっぱりかわいい子には彼氏がいるのか。打ちひしがれた。男性の顔は良く見えなかったが、背が高く、服装はそこまでおしゃれしているわけではないが、黒スキニーに青と黒のダウンジャケットといった服装だ。せっかくコンタクトとおしゃれな服で武装していても、かわいい子は遠い。大学生のうちは可愛くて、胸が大きくて、優しいお姉さんと付き合いたいのに(欲望ダダもれ)。

 こんなことをしていたらあっという間に大学生の恋愛が終わってしまう。時間的・精神的余裕のあるうちに恋愛したい。恋愛経験値を上げたい。恋愛ごっこをして、人間的なセックスがしたい。こんなことを言っているうちは彼女はできないかも。

noteすごくない?

 昨日気が向いたのでnoteに二回目の投稿をした。すると一日で13ビューもされていた。やはりアクティブユーザーの数の違いだろうか。

 嬉しいような気もするが、はてなブログの誰も見ていないところでこっそりやる感じが好きだ。これははてなブログをけなしているわけではなく、本心からそう思っている。他人の目があると演じる必要が出てくる。それが嫌だ。こんなこと書いてたら、Twitterの裏垢でどうでもいいことツイートしてる人と大差なくなってしまう。というか大差ないかも。自己顕示欲を満たしたいと思われたくなくて、人の目なんで気にしてませんよ、というスタンスでいたいのかも。そのための鎧が自分にとっての”緑風渚”になってしまうのはなんだか寂しい。

 もとはといえば、高校時代に何か残したくてつたない小説を書き、ペンネームが必要になったから、三日ぐらい考えて付けた名前だ。さんざん周りの友人からはからかわれ、緑川の方が言いやすいなどと(なぜか)指摘されたり、そのくせ本人はかなり気に入っている名前だ。

 noteにはもう少しスタンスを決めてからエッセイを投稿したい。はてなブログでは引き続き雑記していく。誰にも読まれなくていいけど、ほんとは誰かに読んでもらいたいブログである。

ATMを探し、行き着いた場所

 紆余曲折あって、北大病院にATMを使いに行った。ATMを見つけるのに手間取り、病院内をうろうろしていると様々な人とすれ違った。ランドセルを背負った小学生や、車いすの人、若い医師の人たち、お見舞いに来たであろう人、サーティワンアイスクリームを父親にねだる子ども、ピリピリしてそうな看護師、松葉杖をついた人、談笑しているご老人たち。

 そういえば、自分は人生で一度も大学病院に来たことがない。自分自身は大きなけがや病気をしていないし、家族も特別大きな病気になったことはないので、入院生活や通院は本の中の風景に過ぎなかった。それが今日現実味をもって感じられた。

 そして、病院にお世話になっていないことがとても幸せなことなのではないかと思った。もちろん、病院にいる人が不幸だといいたいわけではないが、健康のありがたさを少し感じた。母親がよく「あんたたちが無事に生まれてきて、元気に成長しているだけで幸せだ」とか「家族みんなが健康でいることって幸せなんだよ」と言っていた意味が少しだけわかった気がした。大学病院内は一階だったこともあり、沈んだ空気が流れているわけではないが、病院にくる人たちは何か身体に不調があってきている人ばかりだ。そう思うと何気ない日常に感謝する。

Noblesse oblige

 ノブレスオブリージュ(仏:noblesse oblige)とは、「身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意。」(デジタル大辞泉より引用)

 

 これだ。新書を読んでいて、ノブレスオブリージュという単語を目にして興奮した。自分の考えに近いものの名前を見つけた。

 私は、恵まれている者は恵まれない者のために行動するべきだと考えている。どうしてそのように考えるようになったかはまだ分かっていないのだが、恵まれた者が他者に尽くすことは自然なことだと考えるし、自分はそのように生きたいと思っている。

 自分の考えが、欧米社会では基本的な道徳観であることに安心し、自分の考えを表現するときに便利な言葉を知り、嬉しくなった。そして改めて語彙力の重要性を感じた。人間は言葉を使ってコミュニケーションをとるので、説明するのが大変なものに名前を付けることは便利なことであるし、言葉を知っていると様々なことを知ることができる。ノブレスオブリージュ。私的にはランドルト環とともにこれからも使っていきたい単語である。

外見に課金するのが怖かった

 おしゃれな服を買ったり、髪型を気にすることは容姿・外見への課金だと考えている。お金も時間も。

 自分で言うのも何だが、私は中の上から上の下ぐらいの容姿をしている(はず)。そのため、容姿やファッション、オシャレに課金をすることが怖いのだ。課金し始めて、外見を気にし始めたら、自分の限界がわかってしまうからだ。課金せずに原石のままでいれば、輝かなくても、(磨けば輝けるんだ)という余裕が生まれる。彼女ができなくても、自信を持つことができる。(この思考回路こそがイケメンではないのだろう)

 例えば、コンタクトレンズや髪型、服装など。高校までは男子校だったのでテキトーで良かったのだが、文系大学生はそうはいかない(勝手な思い込み)。つべこべ言わず、少し磨く必要が出てきた。

 というわけで、コンタクトレンズにして、オシャレをし始めたら…なんと…彼女が…出来たわけではないのだが、やってみると意外と楽しいものだった。私は自分のことが好きなので、オシャレして、かっこよくなっていく自分を見るのは楽しかった。もっと早くからやればよかった。

 人間中身も大事だが、外見も大事である。磨けるなら磨いた方がいいことを学んだ。

 

最後の東大模試

 昨年は受験生だった。東進はセンター試験後に最後の東大模試を実施する。この土日にあったことだろう。

 この時期の私は受験勉強を楽しんでいた。「何が何でも受かってやる」というような気概はなく、「受かればいいなぁ〜」ぐらいの気持ちで勉強していたのかもしれない。センター試験の自己採点の結果はとても高いわけではないが、とても低いわけでもない、(個人的には)中途半端な結果だった。目指すには低すぎるが、諦めるには高すぎる点数だ。そのため、東大に行きたい気持ちはあるものの、受かる気がしないのだ。クラス内で頭がいいな、と思ってた子は軒並み800点を超えていて、自分の点数と見比べ、諦観した。やっぱり届かないんだって。東大はセンター試験の点数は約1/8に圧縮されるので、二次試験勝負だ! という人がいるが、あれは二次試験の点がとても取れる人の話だ。センター試験と二次試験の点数はある程度相関する。問題形式は似ていないものの、素早い情報処理能力と、学習事項を徹底的に学習し、徹底的に暗記する能力が求められる点は似ている。負けず嫌いで、とにかく点数にこだわることが求められる。(もちろん、一部の人たちは点数など気にせずとも結果が出る人もいるので、みんながみんな点数にこだわっているわけではない。)

 だから1月東大模試も楽しんで受けていた。(今、日本一の大学、東大の模試受けてる〜)と思いながら。トップを目指している感覚は楽しかった。受験なんて早く終わってしまえと思いながら、ずっと続いてくれとも思った。終わらなければ、ずっと"東大受験生"でいられるから。

 まだ20年も生きていないが、センター試験から二次試験の一ヶ月間は、「どのような環境に置かれたときに自分はどのように行動するか」が濃縮されている気がする。自分はどこかで楽観的に諦め、楽しく過ごしてしまった自分に負い目を感じる。もちろんプラスに捉えれば、ポジティブ思考でよいのだが、最後まで死にものぐるいで頑張ることは出来なかった自分に引け目を感じ、今でも言い訳の出処にしてしまうのはやめたい。