緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

隠れた特権階級

 階級社会でもないのに自分から特権階級だというのはいささか気が引けるが、先日の泥酔した飲み会で「隠れた特権階級」だと自分の口から出た時、気持ち悪さと気持ちよさが自分の中に同居したので書き残しておきたい。

 「隠れた特権階級」はひとまず、都心で生まれ育ち、家庭が経済的に裕福で、教育機会に恵まれ、高い学歴(学校歴)を獲得した男性と定義したい。これを知ったのは、大学のゼミで差別について扱ったときだ。差別についてそこまで興味が持てなかったときに扱った「マジョリティの特権性」を読み、とても腑に落ちた。社会心理学者の出口真紀子さんが提唱しており、日本社会においてはほかにも日本人であること、異性愛者であること、健常者であることなどをマジョリティ(ここでは多数派ではなく、より多くの権力をもっている側を指す)としてあげていた。

出口 真紀子:マジョリティの特権を可視化する~差別を自分ごととしてとらえるために~|クローズアップ|東京人権啓発企業連絡会

 これを読み、自分の中の特権性に気がつくとともに、自分がノブレス・オブリージュを感じていたことに納得した。自分は特権を有していたのだと。

 今の社会は階級社会ではない。職業の自由もあるし、本人の努力次第という面もある。しかし環境の格差、生まれによる格差は存在する。自分が恵まれているのは、自分の努力ではなく、生まれによるものだという自覚がある。自分で努力して得たものではなく、生まれによって得たもので社会経済的地位を獲得していると思う。

 だから「隠れた特権階級」だと感じるし、それを自覚したなら、自覚したなりにすべきことがあるのではないかと思う。自分で真の特権階級でもないのに特権階級だと言う客観的に見た気持ち悪さと、本心で思っていることを言った主観的な気持ちよさが同居していた。

 今の日本の若者の多くは「親ガチャ」に代表されるように、自分の人生に一種の諦観があると思う。生まれによる格差を是認しているようにも見えるが、格差是認と能力主義は相性が悪い。生まれに恵まれた能力のある者と生まれに恵まれず能力のない者の分断を生む。自由競争、能力主義というなら、生まれによる格差はできる限り縮小するべきであり、それが学校教育のなすべきことだと思う。