緑風渚の引き出し

若干ひねくれた大学生が22年の人生の中で思いついたことを書き残してます。

文理の区切りっていらなくない?

 日本の教育システム的に文理選択は今のところ大きな意味を持つ。大学入試は文系理系で受験する科目が違い、行きたい学部は文系か理系のどちらかに振り分けられていることが大半だ。私は文理選択を良いことと思っていない。

 それは高校生で勉強の幅を狭めるからだ。近年は文系理系にとらわれない学問が増えてきた。「文系だから数学、化学、物理は出来なくていい」「理系だから日本史、世界史、古典はやらなくていい」といった考え方は思考の幅も狭める。

 いっそのこと共通テストを易しくして、文理の別なく英数国理社を受けて、200点×5科目の1000点満点にして、各大学が合否を決めればいいと思う。高校までの基礎範囲を網羅したテストにして、他の能力は個別試験で問えばいいと思う。個別試験は1科目のみや専攻したい学問によって小論文を課すなど、工夫の仕方があると思う。大学生の戯言だが。

待つ、待たせる、待ちわびる

 待つのが苦手だ。

 時間まで来ないと相手がどうしたのか不安になる。今の時代いくらでも連絡手段があるのに。遅れるなら、約束の時間までにはなにか連絡してほしい。

 待つのが苦手なので、人を待たせたときは、とても申し訳なくなる。毎回遅れないように気をつけはするのだが、余裕を持って着くことは稀である。余裕を持たすために用意した時間を使い果たして、5分前ぐらいに到着することが多い。

 待ちわびることもあるのだが、これは嫌いじゃない。慣れてしまっただけかもしれないが、その人のことを考えながら過ごす時間は悪くない。心配しつつ、来たら何を話そうか考える時間。心理的余裕もできるので、待たせるより何倍もましだ。

 待つ、待たせるは人によって感じ方が違うので面白い。この時間感覚が大きくずれる人と長くいるのは難しいかもしれない。

諦めたらそこで終わり

 社会は誰かが変えようとするから変わるのだ。

 特に法律や制度は、誰かが変えようと思い、様々な人を巻き込みながら、エネルギーをかけて変えていくのだ。

 今回のコロナでも、世界が変わってしまい、変わったことによって困った人を救うために、法律が改正されたり、立案されたりしている。

 私は社会を変えるなんて無理だと諦めていた。でも、よりよい社会のために変えようと思っている人の姿を目にして、諦めたらそこで終わりだということに気がついた。

食料危機の分岐点 - 2030

 飽食と飢餓。NHKスペシャルを見た。

 持続可能でない脆弱な食料システムに問題があるそうだ。食料資源が国によって偏りがあること。過剰な肉食が水不足・穀物不足を引き起こすこと。深刻化する食料分配の“ひずみ”があること。そして2050年には、日本でも食料不足になる可能性があること。地球温暖化によってフードショックが起きるかもしれないこと。先進国の人々の危機・悲劇的シナリオの認知が必要だ。資源を使い尽くしてしまえばおしまいである。

 食べ物を捨てることにもっと抵抗を持ってほしい。食品ロスを減らそう。コンビニバイト時代は何も考えずに食べ物を捨てていたが、便利を追求する時代は終わるべきだと思う。

 ただ、問題意識を持っても、行動しないと意味がない。いきなりヴィーガンになるわけではないし、人と話すわけでもないが、少しでもこの現状を知る人を増やさないといけない。

 まぁ、だいたい痛みを知ってからでないとわからない・動かないのが人間。しょうがない気もする。ついでに、意外とどうにかなることもある。(もちろん、尽力してくれる人がたくさんいるからである)悲観だけするのではなく、対策を考える必要があると感じた。

 

誇り高き文系

 私は自分のことを誇り高き文系だと思っている。誇り高き文系とは、数学が出来るが、学びたい分野が文系だったので文系にした人のことだ。勝手に定義した。

 私は文理選択の高1の秋までずっと理系だと思っていた(周りもそう思っていた)が、よくよく考えると理系に進んで学びたい分野が思い浮かばず、興味があるのはむしろ人間や社会であることに気が付き、教育学を学びたいと思い文系を選択した。

 高2の時、他校の生徒とディスカッションをしたとき、最後に文系だと伝えたところ「え、理系だと思った!」と驚かれた。理由を聞いたところ「AIについていろいろ知ってるし、論理的に話ができてたから」と返ってきた。論理的に話せていたことは嬉しかったが、「文系=非論理的・感情的」と思われていたところが悔しかった。今思えば、「文系なのに論理的」を嬉しく受け取れるのだが。

 学問をやるなら論理的思考は必須だと思う。文系だから論理的思考ができないわけではないし、出来るべきである。その論理的思考を最も測れる教科が数学だと思う。だから数学から逃げた文系を私は軽蔑している。英国社の3科目(マークシート)では論理的思考は問えないだろうからだ。

 ただ、自分も受験生時代に受験英語から逃げ、今も逃げている。やれば必ずできるようになる受験英語から逃げたという意味では数学から逃げた人を軽蔑する資格はないし、ほかの人から軽蔑されても仕方ないことをしたと思う。

”東京”で血が騒ぐ

 ひょんなことから最近ほぼ毎日、日本の中枢「霞が関」の近くに通っている。やっぱりゾクゾクする。ガラス張りのビルがそびえたち、日本全体を動かしている(動かすことができる)人たちが集まっている。

 羽田空港から家に帰るときは電車で帰るのが好きだ。山手線に乗っただけで東京に帰ってきた感覚が味わえる。駅と駅の間隔が狭く、その間にある無数の建物とそこで暮らす無数の人々。車内や車窓には広告があふれかえっている。東京には人もモノもカネが集まっている。ついでに電車に乗っている変わったファッションの人も多い。

 北海道(札幌)で少し暮らして思うことは、北海道はのんびりしてる。人も優しい人が多い。せかせかしてない。札幌中心部は広告に溢れているわけではないし、道路が広くゆったりしている。広大な土地を生かしている。そして北に少し歩けば北大があり、徐々に住宅街になっていく。そんな札幌でも暮らしも悪くないのだが、少し刺激が足りない。

 東京に来ると出来ることが増える気がする。可能性が広がる気がする。もちろん気のせいかもしれないが、人間思い込みや気の持ちようは案外大事である。そして、東京が好きだ。人とモノとカネの集まる東京が好きだ。東京にいて面白いと思ううちは、もう少し頑張ってみようかと思う。

ネット記事に思うこと

 スマホのdiscovery(グーグルのサービスの一つ、ネット記事を紹介してくれる)でネット記事を読むことが多いのだが、言いたいことがある。

 わかりにくいタイトルをつけるな

 釣りタイトルは百歩譲って許そう。引っかかるやつが悪い。ただ、わかりにくいタイトルは許さない。特に主語と述語が一致しない、被害者と加害者の区別がしにくい、主体と客体が混ざるなど、見出しを読んで、理解できないどころか理解しようとすると混乱するタイトルをつけないでほしい。わかりやすさで勝負してくれと思う。

 結局読まなきゃいけない羽目になるので、まんまとライターの策略にハマっているのだ。悔しいのでやめてほしい。